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tsukuba-tech.学長日誌

2009年3月31日 火曜日 ・ 学長日誌をお読みいただき有難うございました。

永年勤続者表彰で謝辞を述べる大沼学長

【4年制大学「筑波技術大学」】を設置する法律が公布されたのを機に、「学長日誌」を書き始めた。2005年(平成17年)4月18日の出来事から記し、4年間にわたり連載してきた。2005年5月31日の学長日誌に、最初の想いが述べられている。

【学長日誌】は、学内の教職員に学長がどのような考えを持って日々の大学運営に当たっているのかを知ってもらい、情報の共有を図ろうとしたものである。しかし、多くの学外の関係者、特に特別支援学校・学級の先生や保護者など、本学のステークホルダーにもよく読まれていることが分かり、また多くの反応もいただき、止める訳にいかなくなった次第である。

【これが最後の】学長日誌となった。学長史であると同時に大学史の一部であったという思い入れもある。ホームページのどこか奥の方にでも記録として残していただけるよう、広報室に無理なお願いをしたところである。長い間お読みいただいた皆様に心から感謝申し上げます。さようなら。

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2009年3月29日 日曜日 ・ 愛媛大で講演 ・ 松山空港で聾学校の幼児に会う

【愛媛ヒアリング研究会】は愛媛大学の医学部と教育学部の研究者が中心となって設立され、20年以上にわたって難聴に関わる医療と教育の連携を図ってきた。地方都市にある学会であるが、ジャーナルも第15巻(2009年)を発刊している。会長の高橋信雄教授のお招きで、私の現役最後の講演を愛媛大学で行うことができた。事務局担当の立入哉先生から「教育オーディオロジーの思想と展望」という演題をいただいたが、準備を怠り参加者の期待に添えた内容ではなかったことを反省している。

【講演】の失敗に、私としては珍しく無力感と自己否定感をかかえたまま帰路に向かった。松山空港の搭乗ゲートの椅子にぼんやりしていると、隣に幼児を連れた家族が並んで座った。小さな男の子は母親に「なぜ?どうして?」と頻繁に質問する。母親が一つ一つ丁寧に答える。親子の声が比較的大きいので会話がよく聞こえる。ふと見ると母親の手が手話や指文字で動いているではないか。
私は黙っていられず「よく話をするお子さんですね」と声を掛けると、「すみません、うるさくして」。「いいえ。私はたった今、私が聾学校の幼稚部で教えていたころのスライドを提示して講演してきたばかりだったものですから」。「え?聾学校の先生ですか?」。「はい。私は筑波技術大学の大沼です」。私の名前を知っていた母親はびっくりして「都立O聾学校の幼稚部に通っております。松山市の親戚を訪ねこれから東京に帰るところです」。
44年の勤めの最後に、旅先で隣に聴覚障害幼児が座ってくれるとは何という偶然なのかと感激し、今日最後の講演の不出来による私の抑うつ状態はすっかり消し飛んでしまったのである。ここで出逢ったこの幼児がどんな育ち方、学び方、生き方をして成長するか、楽しみである。まだまだこの教育を已めるわけにはいかない。

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2009年3月26日 木曜日 ・ 大原省三画伯の色紙

【臨時の】教育研究評議会が開催された。私にとって最後の会議となるので、議事の終了にあたって教職員の皆さんに退任の挨拶をさせていただいた。急に招集された会議なので欠席された委員も多かった。ここに改めて記しておきたい。

【権不十年】という朝鮮の古い格言がある。正しくは「権腐十年」であろう。どんなに優れた指導者や立派な組織であっても、その権力が十年も続くと腐り始め本来の目的が失われ不用なものとなりがちである。権力者たるもの、適切な時期に自らの地位や役割を見直し委譲するのがよいと説いたものであろう。私は聴覚部長を2期4年、学長を2期6年、合わせてちょうど10年、天久保キャンパス及び大学全体を動かすことのできるポジションと力を与えていただいた。だからこそ思い切った改革も行うことができた。実現しきれなかったことや次の構想への執着がないわけではない。しかし今が「権腐十年」、新しい時代に夢を託せることを喜びとしたい。

【6年前】学長就任のお祝いとして、金山千代子先生(元母と子の教室主宰)から大原省三画伯(1920〜1992年、日展会友、筑波大学附属聾学校美術科卒、同校教諭)の色紙を贈っていただいた。額に入れ6年間学長室に掛けてある。鳴子こけしの挿画に次の詩が描かれている。『人と人とのあいだを 美しくみよう わたしと人とのあいだを うつくしくみよう 疲れてはならない (八木重吉詩 省三写)』
私の大学運営を支えてくれた言葉の一つである。

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2009年3月24日 火曜日 ・ 教職員研修会「乱用薬物」

【大学生】の大麻等薬物の所持・使用・売買等の事件が多発し社会問題となっている。FD・SD企画室(室長:村上芳則副学長)及び保健管理センター(センター長:一幡良利教授)の共同企画で教職員の研修会を行った。「忍び寄る魔の手・乱用薬物」の演題で日本大学薬学部の伊藤芳久教授にお願いした。

【伊藤芳久教授】には、2年半前に日本で開催された国際会議、第9回アジア太平洋地域聴覚障害問題会議(APCD2006)における「家庭教育分科会」の講師をお務めいただいた。さらに昨年10月にも、京都で開催された第4回日本聴覚障害学生高等教育支援シンポジウムで「薬学部における聴覚障害学生のための情報保障」のお話しをいただくなど大変お世話になっている。【参照学長日誌:2008年10月26日】
しかも、伊藤芳久先生は難聴児をもつ親として筑波大学附属聾学校(聴覚特別支援学校)PTA会長の任にあり、全国聾学校PTA連合会の会長でもある。今日の講演内容は来月予定されている新入生オリエンテーションやフレッシュセミナーを準備するうえで貴重であった。

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2009年3月21日 土曜日 ・ 九谷焼 三ツ井為吉

【九谷焼】の名匠、三ツ井為吉(三代為吉)の作陶展の案内状が届いた。3月31日から1週間、そごう千葉店の特別企画として開催される。この6年間、学長室の棚には常に三代為吉の花器を置いて執務してきた。聴覚障害者である三ツ井詠一氏(本名)は、NTIDでも陶芸の授業を担当し、ギャローデット大学とタイ・マヒドン大学ラチャスダカレッジの客員教授でもある。その業績は海外でも高く評価されている。私より7歳年長であるが永く交誼を結んでいただいている。学長退任のときに合わせたように近くの会場で個展が開かれるのも、私にとって大変嬉しい縁である。【参照:2006年2月21日2005年6月28日学長日誌】

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2009年3月19日 木曜日 ・ 学生表彰

西村博章君への学長表彰

【秋葉原連続殺傷事件】直後の現場に居合わせ救急救護活動に尽力した西村博章君(保健科学部 保健学科 理学療法学専攻 2年次生)に対して学生表彰を行った 【参照;2008年7月4日 学長日誌】。昨年6月8日の事件に遭遇した後、西村君自身が精神的に参ってしまったこともあって大学としての表彰の機会を設けられなかったが、ようやく元気を取り戻したので、卒業式の後、学長室に招き表彰状と記念品を贈呈した。

【西村博章君】は、筑波技術大学第2回入学式の入学生代表として壇上に上がり私の前で宣誓の言葉を述べた学生である。2年前、いよいよ明日挙行される入学式に備え会場となるつくば国際会議場でリハーサルを行った。会場に一人でやって来た西村君はやや緊張気味で、そのとき互いに声を交わしたのがお付き合いの始まりであった。入学後は学生会の会長としての務めもよく果たした。

【表彰】し労いの言葉をかけた私に彼はこう言った。「入学式のとき以来大沼先生にはお世話になりました。今日、大沼先生が退任されることになる最後にお目にかかり、先生から直接表彰を受けたのは自分にとって嬉しいことです。これからも頑張ります。」と。それに応え「私もこれから(第2の人生に)頑張るつもりです。」と。逆に私の方が勇気づけられたお別れの場面であった。(写真:表彰後の西村博章君との記念写真)

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2009年3月19日 木曜日 ・ 小さな卒業式

平成20年度卒業式

【たった3名】の卒業生であるが本格的な式典を挙行した。昨年度に卒業を見送った短期大学部の5名の学生のうち、本日は3名が目出度く卒業証書を受け取った。小さいながらも心温まる卒業式となった。次のような学長式辞を読んだ。(写真:平成20年度卒業式の様子)

【学長式辞(抜粋)】
世界的に注目されているハン・ユンチル(黄宇哲)という彫刻家がいます。ソウル大学を卒業したのち、アメリカやヨーロッパで活躍している国際的な作家です。今は、韓国のソウル郊外に巨大なアトリエを構え、そこから大作が創られ、世界中の美術館やホテルに飾られています。一昨日、ファン氏の招きで制作現場を見せていただきました。
その中で私が最も感銘を受けたのは「desire(欲望)」というタイトルの4部作でした。そのうちの一つはステンレスでできた小山のような台座にアジア系の女性が不思議なポーズで立っているもので、この作品は既にドイツの美術館が購入済みだということでした。
私が惹きつけられたのは「desire 4・欲望が過ぎた馬の脚」という作品です。6メートルを超える高さの馬の彫刻です。見上げる先には引き締まった筋肉の付いた端正なサラブレッドがいます。走らせれば相当に速そうな馬です。目を下に移すと、膝から下に向けて4本の長い長い脚が伸びているのです。本来は汗をかくはずのない馬の腹には沢山の汗が玉になって付いていて、その汗が細長い脚を伝って地面に届いています。汗をかくほど、もっともっと速く駈けられる自分になりたいという欲望が高じたのでしょう。
しかし懸命に欲望だけを求め、長い脚を自分のものとすることができた結果、長すぎた4本の脚ではもはや歩くこともできなくなってしまったのです。自らの欲望だけを、身の丈を考えずに求めすぎると最後には挫折し滅びるという警告が、強烈に悲しく伝わってくる大作でした。この彫刻は中国に渡り上海美術館に飾られるそうです。
さて、皆さんは、これからの人生の生き方で岐路に立ち選択を迫られるときがあります。選択のよりどころとなる「信条」や「座右の銘」を持ってください。本当に愛する人ができ、一緒に生きていきたいと意識できるようになると「思いやり」が本物になります。「思いやり」から生まれる信条がキーワードだと私は思います。
今日、皆さんに餞の言葉として贈りたいのは「自灯明」という言葉です。「自灯明」は、お釈迦様が死の床にあって、集まった弟子達に最後に残したことばです。他の人から道を灯してもらって歩くのではなく、灯明のロウソクのように、自分自身を燃やして、その明かりで周囲を照らすような生き方をしてほしいという意味です。
筑波技術短期大学で学んだ皆さんを、今日世の中に送り出すことができることを私たちは誇りに思います。

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2009年3月17日 火曜日 ・ 世界的彫刻家ハン・ユンチル作の胸像

【銅像】などを作って残す人を軽蔑していたが、事もあろうに私の胸像の制作が進行している。劉先生を中心に韓国の友人たちが、彫刻家ハン・ユンチル(黄宇哲)氏に依頼したものである。ほぼ完成し後は台座の制作を残すだけとなったというので、実物をぜひ見てほしいと言われハン・ユンチル氏のアトリエを訪れた。

【ハン・ユンチル氏】のアトリエはソウル市郊外の山奥にあり、どれも巨大な作品群で広い制作場が埋め尽くされている。2010年開催の「上海エクスポ」には世界各国から1名だけ彫刻家が選ばれて作品展示する。ハン氏はそれに向けての出品作や一流リゾートホテルに据えられる予定の噴水の制作に追われている。「desire(欲望)シリーズ4部作」の4作目として取り組んだ「desire 4・欲望が過ぎた馬の脚」は、ハン氏の創造の神髄ともいえる人間の傲慢さへの警告を強く表している。これまでブロンズ胸像を創ることをしなかったハン氏がdesire4の制作と並行して、私の胸像制作を引き受けていただけたのは有り難いことだ。ハン氏は「これは単なる胸像ではなく、desire(欲望)シリーズと同じ自分の芸術作品だ」と言ってくれた。

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2009年3月16日 月曜日 ・ 韓国便り Bナザレ大学で最終講義

【韓国ナザレ大学】はチョンアン市にある本学の交流協定締結大学である。これまで何度か講演や講義をしてきたが、今日は特殊教育学科の学生に対して特別講義「聴覚障害学概論」の授業を行った。これが私の現役最後の講義となったが、来年度からも引き続き客員教授として授業が用意されるようである。いつもは劉先生が私の日本語を上手に通訳してくれていたが、これからの講義は自分一人で行わなければならない。英語での授業になろうが、日常会話程度のハングルはできた方がよい。4月からはNHK教育TVの「ハングル講座」で勉強しようと覚悟した。

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2009年3月15日 日曜日 ・ 韓国便り A韓国口話学校を訪問、韓国聾教育100周年記念事業の計画

【私立】の聾学校として、日本には1920年(大正9年)にオーガスト・K・ライシャワー博士(エドウィン・O・ライシャワー駐日米国大使の父)の尽力で創立された「日本聾話学校」がある。韓国にも唯一の私立聾学校として「韓国口話学校」がある。聴覚を活用して聴覚障害児の言語力と学力を伸長させてきた実績をもつ。康順玉校長が教育の可能性を熱く語っていた。

【韓国】聾教育100周年の記念事業が今年11月に計画されている。実行委員長を務めるチェ・チャンド先生が盛会を期して各国の関係者に出席を呼びかけている。講演会プログラム案について意見交換した。「日本における聴覚障害教育の実情と展望」を私が、その他に「日本における人工内耳医療と展望」と「重複障害児の教育」のテーマについて日本から講演候補者を挙げることになっている。

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2009年3月14日 土曜日 ・ 韓国便り @底冷えのソウル

【在任中】最後の韓国出張である。柴・総務課長と劉・准教授(国際交流委員会委員)が随行した。今回はソウルで最も格調の高いインペリアル・パレスホテルに滞在する。このホテルは中華とイタリアンのレストランが評判であるが、せっかくの韓国なのでソウル市内の海鮮居酒屋に3人で繰り出し夕食をとった。体の芯から冷える寒さに酒量が上がった。

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2009年3月9日 日曜日 ・ 「透明補聴器」の話

【耳の日】記念事業(日本耳鼻咽喉科学会茨城県地方部会主催)での講演と、一昨日の学長退任講演の際も、前もってスライドを用意しながら時間の都合で割愛した話しがある。「透明補聴器」のことである。やや専門的な話題になるが、ご関心のある方に供覧する。

【透明補聴器】
●21世紀になると補聴器の世界はアナログ式補聴器から完全にデジタル式補聴器の時代を迎えました。それに伴って、補聴器の形は更に小型化・軽量化しました。さらに補聴器は多機能・高性能化し、一人ひとりの聞こえの特徴に合った補聴器の音量・音質などの特性をコンピュータで処方し調整できるようになりました。今やより良い聞こえを求める人の不満や希望に応じて好みの補聴器を自由にオーダーメイドできる時代になったといえます。
●電気式の音響増幅が開発された以降の補聴器の装用様式にも変化の歴史がありました。「箱形」の補聴器の時代には、胸ポケットに補聴器本体を収めたり首から補聴器をつるしたりして装着しました。音を取り込む働きをする補聴器のマイクロホンの位置が胸にあったわけです。つまり、「耳が胸に付いている」状態だったのです。その後、性能の良い小型の「耳かけ形」補聴器や「耳あな形」補聴器が開発されるにつれて、次第に本来の人の耳のある所の近くに補聴器のマイクロホンが位置するようになりました。
●実は補聴器を通して聞く音が、裸の耳で聞く通常の音とどこか違って聞こえる原因の一つに、補聴器のマイクロホンの位置が関係するのです。ポケットや胸に着けた箱形の補聴器は、躰の反射音や衣服による音の吸収などの音響変化を受けます。耳の近くに着ける耳かけ形や耳あな形の補聴器は、頭部や耳介の反射音の影響を受けます。これらの条件を含めて、補聴器に対して裸耳と同じに聞こえる自然な音を求めるのは大変なことなのです。
●もう一つ考慮しなければならない条件は外耳道共鳴効果です。裸の耳にはオープンイヤ・ゲインと呼ばれる共鳴効果があります。鼓膜に達する実際の音圧は、外耳道の入口での音圧よりも高域で強くなっています。外耳道という一方が開いている細長い筒が、試験管に音を入れたときのように共鳴するからです。生後間もない赤ちゃんの耳に入り鼓膜に達する外界の音は、同じ音源を大人が聞いているときよりも、高い周波数成分が強調されて聞こえています。赤ちゃんの外耳道が成長して長くなるにつれて、共鳴効果は低い周波数に移るのです。誰でも人の耳は実際の音よりも外耳道共鳴の分だけ高い周波数が加えられて聞いているわけです。ところが補聴器のイヤホンや耳せん(イヤモールド)で耳をふさいだ途端に、この外耳道共鳴効果の分だけ増幅が無くなってしまうという現象が起きます。
●仮に聴力が正常で補聴器を必要としない普通の耳に、伊達眼鏡ならぬ「ダテ補聴器」を着けてみるとします。そして、その補聴器を装着したときの聞こえが、本来の何も着けない裸の耳のときと違わない自然な音にしたいとしたら、どのような補聴器を処方したらよいのかという課題です。これが素通しの補聴器−「透明補聴器」(transparent hearing-aid)の発想です。
●透明補聴器の電気音響的増幅は、足しも引きもしないフラットな周波数特性を持たせればよいと簡単に考えてしまいがちですが、そのままでは高い音が不足気味のゴモゴモした感じになるなど、期待通りの聞こえは得られないでしょう。普段聞くのと変わりない聞こえが補聴器を通してでも補償されるには、以上述べたような様々な影響を相殺するように、装着した補聴器自体で増幅を加減して補わなければならないのです。そうしたわけで、透明補聴器を処方できる技法があれば、難聴に対する補聴器フィッティングもかなり精度の高いものになるに違いありません。
●私は補聴器フィッティングを専門とする研究者として、65歳の誕生日を迎えた2年前から、自分自身の耳に補聴器を装用し始めています。年齢相応に加齢による高い周波数の聴力低下がみられるだけで、一般の人であれば特に補聴器が必要だとは考えないでしょう。両耳の聴力に合わせて念入りに処方し何度も調整を重ねた愛用の補聴器です。周囲が騒がしいパーティー会場やよく聞き取れない話し方をする発言者のいる会議の場で効果を発揮してくれます。テレビドラマの台詞もハッキリ聞き取れます。外国人との会話では英語力が実力以上になったように感じられます。
●難聴がすっかり進行してから補聴器を使い始めるよりも、高齢期に入る前頃から補聴器の試用の機会が得られるとよいでしょう。共用品としての補聴器が身近にあれば、補聴器装用者の心理や難聴の聞こえを擬似体験(シミュレーション)するのにも役立つでしょう。夢の「透明補聴器」に向かって開発が進むことにより、また新たな共用品が生まれると期待しています。

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2009年3月7日 金曜日 ・ 学長退任記念講演会

大沼直紀学長退任記念講演

【大沼直紀学長退任記念講演会・懇談会】を開催していただいた。第1部の講演会には、本学の教職員に加え、名誉教授、筑波大学等の他機関に転任した職員、「筑波技術大学聴覚障害学生支援親の会」の保護者など、本学の大学人会の方々120人余りが出席された。学長としての最終講演であるから、本来は法人化や4年制大学化、そして大学経営等の苦労話と将来に向けての課題や展望などを言い残すべきであろう。しかし、これらのことは「学長年頭所感」「入学式学長式辞」「卒業式学長式辞」、そして「学長日誌」に機会あるごとに述べてきた。そこで、常日頃お話しできなかった「補聴器と私」を演題とし、私の44年間にわたる聴覚障害補償の仕事を支えてくれたアメリカ留学生活や教育研究の発想などを聞いていただいた。
(写真:記念講演の様子)

【第2部】の懇談会でも、大勢の方々と懐かしい想い出話ができた。皆さんから「退任後はどうされるのですか?」と訊ねられるこの頃である。「これまでの暮しをリセットし、私は何をすべきか、何ができるかをゆっくり考えてみます。4月から始まる年金生活の準備を始めているところです。」と申し上げている。

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2009年3月3日 火曜日 ・ 耳の日

【今日】は「耳の日」である。耳の日ができて54周年の記念事業が全国各地で催される。日本耳鼻咽喉科学会茨城県地方部会(部会長:原晃・筑波大学耳鼻咽喉科教授)も下記の内容で「第54回耳の日記念事業」を計画している。耳の日の「3月3日」はグラハムベルの誕生日でもある。私が「グラハム・ベルと難聴者への支援」の演題でお話しする。市民公開講座として開催されるので関心のある方に紹介していただければ幸いである。

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